episode 2「オールドコーチを選べた日」
壁にかかるのは、母から譲り受けたオールドコーチのショルダーバッグ。
あの時のときめきは残っているのに、いつも私は、選べない。
今日はなにを着ようかな。
ついこないだまで会社員だった私は、普段の服装なんて気にも止めてこなかった。
オフィスファッションに憧れを抱きつつも、私の制服は病院の中に、施設の中に。
家からロッカールームまで、誰に見せるでもなく纏う服に必要なのは機能性。
いかに早く着替えられ、動きやすく、脱ぐのにも手間取らないもの。
そうして選んできた服たちは、「着たいから」とは少し遠い。
だって仕方ないじゃない。
私は母で、いつも着替えなんかよりも前に子ども達の対応が必要で。
私は専門職で、職場に着いたらすぐに着替えられなくちゃいけなくて。
なんの疑問もなければ、不自由もない。不満もない。
でも、そうして過ごしているうちに、私は選べなくなっていた。
目にみえる、毎日のようにある「着替え」という行為の中で、「着たい服」を選ぶことが、できなくなっていた。
大した問題じゃない、という人もいるだろう。
確かにそうだ。
いかに早く脱ぎ着でき、動きやすく、選択するために脳みそを使う必要ないことが「人生の豊かさである」という人もいる。
そのもとめている声に応えられていれば、なんの問題もない。ないんだけれど。
母からもらったオールドコーチのバッグが目に入る。
これまで何度か出かける時に持って行きたいと思った、ショルダーバッグ。
20代前半。譲り受けた時は、まだまだ不相応だと思って、持って出掛けられなかった。でもその佇まいに、ただただうっとりした。
20代後半。子どもが生まれると小さなバッグを持って出かけることはほとんどなく、ずっとバッグをかけるところで出番を待っている。
30代前半。子育てと仕事が本格的に始まると、よりおしゃれに手間暇かけることがなくなる。ファッションに合わせようと、持って合わせてみるけど、どうにもこうにも気が引ける。
不相応。
もう一度この言葉がよぎり、一旦また、バッグの置き場へ。
30代後半。いまだに私は、オールドコーチを選べない。
この自信のなさはどこからくるのか。
不相応だと自分に向かって言い続けているのは紛れもなく私で、
それは自分の「好きな服」が分からないからで、
自分の似合うが分からないからで、
とはいえよくある診断を受けても結果に納得できないからで、
それは結局、私が「好き」を選べていないからで。
ぐるぐる ぐるぐる
メリーゴーランドのように回り続けている。
自己肯定はできているでしょう、とタカを括っていた私の、意外なところにある「迷い」を知ることになる。
誰かと会う日は、なおさら難しい。
誰かにとっての印象を、「こう魅せたい」を簡単に作れる現代では、
自分が「どう在りたい」を、後回しにしてしまう。
結果、自分の好きも分からず、「馴染んでいるか、相応か」みたいなものに囚われてしまう。
人は見た目なんかじゃない、っていうのは、キレイゴトでしかない。
人は見た目だ。
見た目に内面が現れる。
目の輝き、髪や肌の艶、自然な笑み、そこに見える笑いじわ…
現代の世が求める造形美がどうとかいうことじゃない。
これらは、自分が自分に対して「今日もいい感じ」と思えているかどうかに大きく関わってくるはず。
自分が自分の髪型を最高だと思っていたら目に光が宿る。
自分が今日のファッションに納得がいっていたら、背筋が伸びる。
最高、や、納得している、というのは、自分が自分の「良い」を選択できている時だ。
30代を折り返し、私は毎日数字を重ねている。
相応、不相応がもはや分からないけれど、私は今、選びたい。
「私が」好きだと思える服を
「私が」したい髪型を
「私が」履きたい靴を。
大したことないように見えることを、大袈裟なほどに決断したいの。
今日なにを着るのか。
今日なにを履くのか。
今日なんのバッグを合わせるのか。
……………………………………
今日はなにを着ようかな。
鏡の前で合わせてみる。
このバッグを合わせてみよう。
ちょっと大きさが心配だな。でも。
今日はこのバックに合わせて、余計なものは持っていかない。
オールドコーチのバッグを選べた日。
私はとびきり、最高だったに違いない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
初めてのアフタヌーンティーを嗜んだ冬の日。
私は久しぶりにオールドコーチのショルダーバッグを選べました。
自分の意思で合わせました。
とびきり楽しくて、自分のことも、一緒に行ってくれた友人のことも、これまでよりもっと好きになれた1日でした。